世界中のテックファンが知る「PARC(パーク)」ことパロアルト研究所は現代のコンピューティングの基盤となる数々の革新的技術を生み出した伝説的な研究施設です。
グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)からイーサネット、レーザープリンターまで私たちが日常で使用する多くの技術はこの研究所から誕生しました。
本記事では、テクノロジーの歴史を塗り替えたPARCの足跡を辿り、その驚くべき発明と時代を先取りした研究文化について詳しく紹介します。
PARCの誕生と背景
単なるコピー機メーカーを超えるゼロックスの野望
パロアルト研究所(PARC:Palo Alto Research Center)は1970年、当時世界最大のコピー機メーカーだったゼロックス社によって設立されました。
ゼロックスの経営陣は「単なるコピー機メーカー」という枠を超え、事業を多角化したいと考えていました。そこで注目したのが当時新興分野だったコンピュータサイエンスです。
設立場所として選ばれたのは、スタンフォード大学に近く、すでに技術革新の拠点として成長し始めていたカリフォルニア州パロアルト。後にシリコンバレーと呼ばれることになるこの地域に研究所を置くことで、優秀な人材を集め、最先端の研究を推進する狙いがありました。
当時のゼロックス社は驚くほど先見性のある経営判断をしていたと言えるでしょう。
研究者たちに多大な自由と潤沢な予算を与え、市場の短期的なニーズに縛られない基礎研究を奨励したのです。「石を投げれば博士号持ちに当たる」と言われるほど一流の研究者を集めることに成功しました。
自由で創造的な研究文化の確立
PARCが歴史に名を残す研究所となった背景には、その独特な研究文化があります。ゼロックスは研究者たちに対し、短期的な利益に直結しない基礎研究でも自由に取り組める環境を提供しました。
PARCの初代所長であるジョージ・パイク(George Pake)は「最高の人材を集め、彼らに望むことをさせよう」という哲学を持っていました。この方針のもと、コンピュータサイエンス、電気工学、物理学、心理学などさまざまな分野のトップクラスの研究者が集まりました。
その中には、アラン・ケイ、バトラー・ランプソン、チャールズ・ゲシキ、ロバート・メトカーフなど後に計算機科学の巨人となる研究者が多数含まれていました。
PARCの日常は形式ばらない議論や「ビーンバッグミーティング」と呼ばれる自由な形式の会議が特徴でした。これらの会議では、ビーンバッグチェア(豆袋の椅子)に座りながら研究アイデアを交換し合ったそうです。この自由闊達な雰囲気が学問分野の垣根を越えた革新的なアイデアを生み出す土壌となりました。
PARCの創設メンバーはどのように集められたのですか?
PARCの創設にあたり、ゼロックスは当時のトップ研究機関からスター研究者を引き抜く戦略を取りました。
特に重要だったのが、ARPAネット(インターネットの前身)の開発に関わっていたUC Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)やSRI(スタンフォード研究所)、MIT(マサチューセッツ工科大学)の研究者たちでした。
彼らを引き付けたのは潤沢な研究予算と自由な研究環境という約束でした。アラン・ケイ、バトラー・ランプソン、チャールズ・ゲシキなど、のちにコンピュータ科学の巨人となる研究者たちが集まり「夢のチーム」を形成しました。
興味深いことに多くの研究者がゼロックスより高い給料をもらっていた前職を離れてPARCに加わったのは、この自由な研究環境に魅力を感じたからだと言われています。
PARCの画期的なイノベーション
現代のパソコンの原型:ゼロックス・アルト
PARCの最も有名な開発成果は1973年に完成した「ゼロックス・アルト」です。このコンピュータは今日のパーソナルコンピュータの直接の先祖と言えるでしょう。アルトは多くの点で革命的でした。
まず、グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)を採用し、それまでの文字ベースのコマンドライン操作から大きく進化しました。デスクトップメタファー、重なり合うウィンドウ、アイコン、ポップアップメニューなど現代のGUIの基本要素のほとんどがアルトで導入されました。
また、アルトは「WYSIWYG(What You See Is What You Get:画面で見たものがそのまま出力される)」の概念を実現した最初のコンピュータでした。ブリット(Bravo)というワードプロセッサでは画面上で文書の書式設定が行われ、印刷時にはそのままの形で出力されました。これは当時としては革命的なことでした。
さらに、コンピュータマウスの実用化もアルトの大きな特徴です。マウス自体はダグラス・エンゲルバートが1960年代に発明していましたが、一般的な入力デバイスとして広く使われるようになったのはアルトからでした。
アルトは内部的にも革新的で、オブジェクト指向プログラミング言語「Smalltalk」で開発された独自のオペレーティングシステムを搭載していました。小型のビットマップディスプレイを持ち、ネットワーク接続も可能でした。
ネットワーキングの革命:イーサネットの開発
1973年、PARCのロバート・メトカーフとデビッド・ボッグスは「イーサネット」と呼ばれるローカルエリアネットワーク(LAN)技術を開発しました。「エーテル(ether)」という古代の概念にちなんで名付けられたこの技術は複数のコンピュータがケーブルを介して通信できるようにするものでした。
イーサネットの画期的な点は「CSMA/CD(搬送波感知多重アクセス/衝突検出)」という方式を採用したことです。これにより複数のコンピュータが同じネットワーク上で効率よく通信できるようになりました。イーサネットは今日でも最も広く使われているLAN技術であり、インターネットの基盤技術の一つとなっています。
メトカーフはその後、3Com社を設立してイーサネット技術の商業化に成功しました。また「メトカーフの法則」として知られる「ネットワークの価値はノード数の2乗に比例する」という概念を提唱したことでも知られています。
印刷技術の革新:レーザープリンターの実用化
1971年、PARCの研究者ゲイリー・スタークウェザーはゼロックスの複写機の技術を応用して世界初の実用的なレーザープリンターを開発しました。それまでのドットマトリクスプリンターと比べて、レーザープリンターは印刷速度が速く、高品質な印刷が可能でした。
レーザープリンターの原理は、レーザービームを使って感光体ドラムに画像を描き、そこにトナーを付着させて紙に転写するというものです。この技術はゼロックスの複写機技術の延長線上にあり、ゼロックスの強みを生かした開発でした。
1977年に発売された「Xerox 9700」は初の商業用レーザープリンターとして成功を収めました。毎分120ページという当時としては驚異的な速度で印刷でき、ビジネス文書の作成方法を根本から変えました。
皮肉なことにPARCで開発された多くの技術の中で、レーザープリンターは珍しくゼロックスが商業的に成功を収めた数少ない例となりました。
プログラミング言語とソフトウェア技術の進化
PARCはハードウェアだけでなく、ソフトウェア技術の進化にも大きく貢献しました。特に重要なのはアラン・ケイらが開発した「Smalltalk」というプログラミング言語です。
Smalltalkは「オブジェクト指向プログラミング」の概念を具現化した最初の言語の一つでした。すべてがオブジェクトとして扱われ、これらのオブジェクトがメッセージを交換することでプログラムが動作するという考え方は、その後のJava、C++、Pythonなど多くの現代的なプログラミング言語に影響を与えました。
またPARCは「Interpress」という印刷用ページ記述言語も開発しました。これは後にアドビ社によって「PostScript」として発展し、デスクトップパブリッシングの基盤技術となりました。PostScriptの発展形である「PDF(Portable Document Format)」は今日でも文書共有の標準フォーマットとして広く使われています。
アラン・ケイの「Dynabook」構想とは何ですか?
アラン・ケイが1970年代初めに提唱した「Dynabook」は現在のタブレットコンピュータを先取りした構想でした。
「すべての年齢の子どもたち」のためのパーソナルコンピュータという発想で、A4サイズほどの薄い携帯型端末を想定していました。画面に直接タッチしてインタラクションができ、マルチメディアコンテンツの閲覧や創作、通信機能を持ち、バッテリーで長時間動作する——これらの特徴は30〜40年後のiPadなどのタブレットそのものです。
当時の技術では実現不可能だったこの構想はケイ自身が「方向性を示す概念」と呼び、PARCでの研究の指針となりました。2011年、ケイはスティーブ・ジョブズにiPadを見せられた際「私のDynabookの近似値だね」とコメントしたと言われています。
PARCの功績と逸話
「失われた機会」とスティーブ・ジョブズの訪問
PARCの歴史を語る上で外せないのが1979年に起きたスティーブ・ジョブズの訪問です。当時アップルの共同創業者だったジョブズはゼロックスとの取引の一環としてPARCの技術を見学する機会を得ました。
そこでジョブズが目にしたのがアルトコンピュータとそのグラフィカルユーザーインターフェースでした。GUI、マウス、オーバーラッピングウィンドウなどの革新的な技術に魅了されたジョブズはこれらの概念をアップルの製品に取り入れることを決意しました。
「これが未来だ!」と叫んだとされるジョブズは、PARC訪問後アップルの開発チームにGUIの開発を指示しました。その成果が1983年のApple Lisaや1984年の初代Macintoshとして結実します。皮肉なことにゼロックスが商業化に失敗した技術をアップルが成功させたのです。
この出来事は「ゼロックスの失われた機会」として語り継がれています。革新的な技術を持ちながらその価値を十分に理解できなかったゼロックス経営陣の判断が批判されることもあります。
しかし実際にはアルトは高価すぎて一般消費者向け製品としては成立せず、ゼロックスも「Star」というワークステーションで商品化を試みましたが価格と性能のバランスがとれず失敗しています。
ユビキタスコンピューティングの先駆け
1980年代後半、PARCの主任研究員マーク・ワイザーは「ユビキタスコンピューティング」という概念を提唱しました。
これはコンピュータが日常生活のあらゆる場面に埋め込まれ、人々が意識することなく利用できるようになるというビジョンです。
ワイザーは「最も深遠なテクノロジーとは消えてなくなるものである。それらは日常生活の中に溶け込み、見分けがつかなくなるまで織り込まれる」と述べています。この考え方は今日のモノのインターネット(IoT)やスマートホーム技術の概念的な基盤となりました。
PARCは1990年代初頭、このビジョンを実現するための試作システムを開発しました。「ParcTab」「ParcPad」「LiveBoard」と呼ばれる異なるサイズの連携するデバイスは今日のスマートフォン、タブレット、スマートディスプレイの先駆けと言えるでしょう。
PARCでは主にどのような研究分野が重視されていたのですか?
PARCの研究活動は非常に幅広い分野にまたがっていましたが、特に重要視されていた分野として以下が挙げられます。
1)コンピュータサイエンス。ユーザーインターフェース、プログラミング言語、分散システムなど。 2)ネットワーキング。イーサネットに代表されるコンピュータ間通信技術。 3)ハードウェア。コンピュータアーキテクチャ、ディスプレイ技術、入力デバイスなど。 4)印刷・画像処理。レーザープリンター技術、画像認識・処理技術。 5)ヒューマンコンピュータインタラクション(HCI)。人間とコンピュータの相互作用に関する研究。
これらの分野は互いに影響を与え合い、PARCの学際的アプローチの基盤となりました。注目すべきは技術的可能性だけでなく「人間がどう使うか」という視点が常に重視されていたことです。
ゼロックスからの独立と現在のPARC
2002年、PARCはゼロックスから分離し、独立した子会社となりました。これは研究所の知的財産をより効果的に商業化するためでした。独立したPARCはゼロックス以外の企業とも協力関係を築き、より幅広い分野で研究・開発を進めることが可能になりました。
現在のPARCは人工知能、クリーンテクノロジー、デジタル製造、ヘルスケアなどさまざまな分野で研究を続けています。基礎研究だけでなく企業との共同研究やコンサルティングサービスなどより実用的な活動も増えています。
2019年にはゼロックスがコンダクティブ・ベンチャーズ(Conduent Ventures)からPARCを再取得しましたが、独立した研究機関としての性格は保たれています。現在も世界中から優秀な研究者を集め、次世代のイノベーションに挑戦し続けています。
PARCの遺産と現代テクノロジーへの影響
現代コンピューティングの基盤技術
PARCの研究は現代のコンピューティング環境の基盤となる多くの技術を生み出しました。
GUIとマウスを使ったインターフェース、WYSIWYG編集、オブジェクト指向プログラミング、イーサネットによるネットワーキング、レーザープリンティング技術——これらはすべて現代のデジタル生活に不可欠な要素です。
重要なのはPARCがパーソナルコンピューティングの概念を形作ったことでしょう。それまでのコンピュータは巨大で高価な「共有リソース」でしたが、PARCは「一人一台のコンピュータ」という考え方を推進しました。この概念は今日のパソコン、スマートフォン、タブレットなどのパーソナルデバイスの発展につながっています。
またPARCの研究文化や組織の在り方も後のシリコンバレーのテック企業に大きな影響を与えました。Googleやフェイスブックなどの企業が採用している「20%ルール」(勤務時間の一部を自由な研究に当てる制度)などはPARCの自由な研究文化の影響を受けたものと言われています。
企業研究所のモデルケースとしてのPARC
PARCは企業研究所のあり方についても大きな影響を与えました。
短期的な利益よりも長期的なビジョンを重視し、研究者に自由を与える研究環境は後のIBMリサーチ、ATT Bell研究所(後のLucent/Bell研究所)、マイクロソフトリサーチなどの企業研究所のモデルとなりました。
重要なのはPARCが学際的なアプローチを採用したことです。コンピュータ科学者だけでなく心理学者、社会学者、デザイナーなどさまざまな分野の専門家が協力して研究を進めるというスタイルは現代の企業研究所でも広く採用されています。
一方でPARCの「商業化の失敗」という側面も企業研究所にとって重要な教訓となりました。革新的な技術を生み出すだけでなくそれを市場に届ける仕組みも重要であるという教訓は今日の企業研究所の多くが「研究から製品化」のパイプラインを重視することにつながっています。
研究文化と創造性のパラダイム
PARCの最も重要な遺産の一つはその自由で創造的な研究文化かもしれません。
「最高の人材を集め、彼らのやりたいことをやらせる」という哲学はイノベーションを促進する環境づくりのモデルとなりました。
異なる分野の専門家が交流しアイデアを交換する「ビーンバッグミーティング」のような非公式の場が創造性を高める上で重要な役割を果たしました。現在のテック企業でも社員同士の自由な交流を促進するオープンオフィスや共有スペースの設計などPARCの研究文化の影響を見ることができます。
PARCの元研究員の多くは後にシリコンバレーの主要企業で重要な役割を果たしたり、独自の企業を設立したりしました。彼らを通じてPARCの文化や価値観は広くテック業界に伝播していったのです。
PARCの研究者たちは、その後どのようなキャリアを歩んだのですか?
PARCの研究者たちはその後多様なキャリアパスを歩みました。主な例として:
1)アラン・ケイはアップル、ディズニー、HPで研究を続け、現在はViewpointsリサーチインスティテュートを運営。 2)ロバート・メトカーフはイーサネット技術を商業化するために3Com社を創業。 3)チャールズ・シモニーはマイクロソフトに移り、Wordなどの開発を主導。後に宇宙旅行も実現。 4)ジョン・ワーノックとチャールズ・ゲシキはアドビシステムズを共同創業し、PostScriptやPDFを開発。 5)バトラー・ランプソンはDEC(デジタル・イクイップメント)やマイクロソフトで研究を続け、チューリング賞を受賞。
PARCは「人材の孵化器」としての側面も持ち、そこで培われた思想やアプローチは研究者たちを通じてテック業界全体に広がっていきました。
まとめ
パロアルト研究所(PARC)は現代のコンピューティング環境の基盤となる多くの革新的技術を生み出した伝説的な研究機関です。
1970年にゼロックス社の研究部門として設立され、グラフィカルユーザーインターフェース、マウス、イーサネット、レーザープリンターなど今日では当たり前となった技術の多くがここで開発されました。
PARCの成功の背景には自由で創造的な研究文化がありました。異なる分野の専門家が交流し、短期的な利益にとらわれず基礎研究に取り組める環境は画期的なイノベーションを生み出す土壌となりました。
皮肉なことにPARCで開発された多くの技術はゼロックス自身ではなくアップルなど他の企業によって商業化されることになりましたが、これはテクノロジー業界に重要な教訓を残しました。
2002年に独立子会社となった後もPARCは人工知能やクリーンテクノロジーなど新たな分野で研究を続けています。PARCが確立した研究アプローチや組織文化は現代の企業研究所や技術開発のモデルとなり、シリコンバレーのイノベーション文化にも大きな影響を与えました。
パーソナルコンピューティングの基盤を築いたPARCの功績は現代のデジタル社会を形作る上で計り知れない貢献をしたと言えるでしょう。
過去半世紀にわたるPARCの歴史は技術革新がいかにして生まれ、社会を変革していくかを示す貴重な事例としてこれからも語り継がれていくことでしょう。

