エニアック コンピューターの始まり

その他

エニアックの略

ENIACとはElectronic Numerical Integrator and Computer、直訳で電子数値積分機計算機、である。

1945年に完成したENIACは、最も初期の電子式汎用デジタル・コンピュータとして有名である。

その設計は当時の機械式や電気機械式の計算機とは大きく異なった。電子部品を利用して速度と効率を向上させた。今聞くと当たり前だと思うかもしれないが勿論画期的な転換点である。

ENIACの製造目的

ENIACの初期の目的は砲弾を正確に照準するために重要な砲弾の発射表の作成を支援することであった。つまりアメリカ陸軍のための軍事目的である。

この表作成は以前は多大な人手と時間を要していたがENIACによって劇的にスピードアップした。

そして第二次世界大戦後にはENIACは水素爆弾の開発に使用されることになる。ここでも水爆に必要な複雑な物理学の計算を効率よく行った。

こうした軍事目的以外の利用としては気象予測もあった。大規模な数値を使った天気予報の最初の試みの一部に使用されたのだ。これは現在各国のスーパーコンピュータが担っている気象学におけるコンピュータ使用の基礎を築いたともいえる。


またその他一般的な科学研究での利用ももちろんある。平時には特定の用途にとどまらずにさまざまな科学研究タスクに利用され、科学と工学の幅広い問題に対する電子計算機として活躍した。

ENIACの後継機は? EDVAC!

ENIACに比べるとほとんど知られていないがENIACの直接の後継機はEDVAC(Electronic Discrete Variable Automatic Computer)である。

こちらも計算技術の著しい進歩を象徴するものであった。

ENIACが10進演算を基本とし、プログラミングにプラグボードを使用していたのに対し、EDVACは2進数の演算とストアドプログラムアーキテクチャーの使用を導入したのだ。

これは、10進法から2進法への進化は言うまでもなく現在のコンピューターと同じ演算法である。ストアドプログラムについてもEDVACがデータとともに命令をメモリに保存できることを意味する。

つまりこの時点で現代のコンピューティングを支える基本原理を備えていることを意味するわけである。

ENIACの開発者たち

ENIACは東海岸のペンシルベニア大学ムーア校電気工学科のジョン・モークリーとJ・プレスパー・エッカートという2人のエンジニアが率いるチームによって開発された。

モークリーは電子計算機のビジョンを提供し、エッカートはそのビジョンを実現するために電子工学の専門知識を提供した。二人の協力とチームワークによってENIACが誕生し、電子計算機の未来への道が開かれたのである。

現代のパソコンやラップトップと違って、ENIACの組み立ては製造ではなくほとんど建設である。この建設には17,000本以上の真空管が必要で、床面積はなんと1,800平方フィート近くを占めた。また重量についても30トン近くもあったのだ。

電力消費量も相当なもので、約150キロワットの電力を消費しこれは数十世帯分の電力を賄うのに十分な量でありほとんどコンピューターというよりは工場である。

実際これらの事実によりENIACが街全体の停電を引き起こしたという数々の都市伝説を生んだほどである。またここで重要な特徴は先述のように、ENIACは(2進数ではなく)まだ10進数のコンピューターであることだ。

その計算は機械式加算機のようにパルスのカウントに基づいていた。

女性プログラマーたちの活躍

ENIACは技術的には大きな進歩を遂げたが完全自動ではなく、オペレーターがケーブルやスイッチを調整してプログラムを手動で設定する必要があったた。

そのためプログラミング・プロセスは時間がかかり複雑なものだった。

エニアックで働く初期のプログラマーは女性であった

こうしたことを行うENIACの主要なプログラマーは6人いた。そして彼女たちは全員女性であり重要な役割を果たしていた。

ちなみに名前は、ベティ・スナイダー・ホルバートン、ジーン・ジェニングス・バーティク、キャスリーン・マクナルティ・モークリー・アントネッリ、マーリン・ウェスコフ・メルツァー、ルース・リヒターマン・タイテルバウム、フランシス・ビラス・スペンスの6人である。

ある意味で最初のプログラマーでもある彼女たちはENIACの創設に不可欠であっただけでなく、後世の女性技術者への道を開くことにも貢献したといえる。

ENIACの革新性 天才フォン・ノイマンの影響

ENIACのメモリはその物理的な巨大さにもかかわらず、現在の基準からすると非常に限られていた。

一度に保存できる数値はわずか20程度である。処理速度は1秒間に約5000回の加算が可能で、当時としてはこれも驚異的であったが、当然現代の機器の処理速度に比べればはるかに小さい。

以上のように計算速度の速さは十分革新的であるが、より強調すべきはENIACの設計は汎用性があったことだ。人間の介入は必要だったものの、あらゆる計算問題を解決するために再プログラムすることが可能だった。

1940年代に製造されたにもかかわらずENIACは1955年まで稼働し続けた。どれだけ重要で代理品がないテクノロジーの塊であったかが、最近のスマートフォンやゲーム機の使用される年数などと比べると身近にわかってもらえるかもしれない。

先述の通り、ENIACの「ストアドプログラム」のアーキテクチャは、命令をデータとともにメモリに格納するもので、第2世代コンピュータである先述のEDVACの設計に直接影響を与え今のコンピュータにまで生きているものである。

ただしENIACの建設当初はプログラムを保存する方法がなかったのだ。これは有名な天才ジョン・フォン・ノイマンのアイデアに基づいて原始的な読み取り専用の保存プログラム機構が追加されたことによる。具体的な時期としては1948年のハードウェアの更新が行われたときである。

ENIACのその後

ちなみにENIACが廃止されたのち、その一部は教材や技術展示として使われた。

例えば、パネル1枚と関数テーブル3台はスミソニアン博物館に所蔵されており、もう1枚のパネルは、最初に建設されたペンシルベニア大学の工学部と応用科学部に展示されている。

最初のコンピューターENIAC

またENIACの研究は最初の市販コンピュータの1つであるUNIVACの開発に直接つながっている。実は先述のENIACの生みの親の2人、ジョン・モークリーとJ.プレスパー・エッカートによってこちらも創造された。

まとめとして。

時は流れウィンドウズ95が話題になっていた年の翌年、1996年。

ENIACの公開から50周年を記念して、ペンシルバニア大学はコンピュータとその製作者たちを称える一連のイベントと展示を主催した。

そして今やENIAC以上の計算能力のENIACの構造を引き継いだコンピュータは世界中の人の手のひらの上にある。感慨深い発展の歴史である。

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